多くの人がSNSやブログなので自分の意見を発しています。そういうものを眺めていると多くの人が「戦争は悪である」「いじめは悪である」というような文章を書いていますが、実のところ「戦争は嫌だ」「いじめは嫌だ」と言っているに過ぎないように思えます。「嫌い」と「悪い」は別の概念ですが、ついつい「嫌い」なことは「悪い」ことと思ってしまうようです。

私個人としては「自然界に存在するものは善である」という感覚があります。「自然」は「あるがまま」ということですから、「あるがまま」のどこが問題なんだと思うわけです。背が高い低い・太っている痩せている・肌の色が白い黒い黄色いなど、人間の理性で操作されていない自然界の存在は全て善で、自然界には「背が低いのは悪い」とか「肌の色が黒いのは悪い」と言った評価はありません。過去に黄禍論を唱えて黄色人種を悪として排斥・虐殺した歴史がありますが、「嫌い」と「悪い」を極端な解釈で混同した例の一つだと思いますし、現在でもこれに類することは無くなっていません。差別問題と騒がれる事柄などは「嫌い」を「差別だ」と解釈する・させることで問題化しているように見えます。「嫌い」と言われるのが「嫌い」だから、「嫌い」と言わせないために「差別」という概念を持ち出して口を塞ぐ手法です。「自然界に存在するものは善である」とするなら差別が起きることもないのでしょうが、「嫌い」を「差別」と解釈するならいくらでも差別問題は起きることになります。大脳優位の人間だからか、近代合理主義が浸透しているからなのか、理性による操作で善悪をすり替えるというフェイクをやっているのではないかと思えてなりません。

「動的平衡」という生命観があります。

生物は動的平衡状態にある。食べたタンパク質を分解して、新たにタンパク質を合成し、要らないものは排出するという代謝の仕組みによって、常に体の構造や組織が平衡状態に保たれるというのが動的平衡です。壊して作るの繰り返しを積極的行なっています。ネズミなどは3日ほどで体のタンパク質が入れ替わるそうで、ネズミよりは時間はかかるものの人間も例外ではありません。

これによってわかることは、

  • 食べたものがそのまま体になるのではない
  • 生物は実際は積極的に体を壊している

ということです。

エントロピー増大の法則というのを聞いたことがある人は多いと思いますが、宇宙は(自然は)秩序が乱れる方向に動く。この法則は宇宙の一部である私たちの体の組織に当てはまり、体の組織という秩序はどんどん乱れる方向に動くので、それを維持するために積極に壊して作り直しているというわけです。増大したエントロピーを捨てているわけです。

人間を含めた自然環境も破壊と生成の繰り返しです。植物が二酸化炭素から炭素を取り込み、それを動物が食べる。これだけだと大気中の二酸化炭素が減るばかりで、いずれ植物が絶滅し動物も絶滅することになるわけですが、地球が誕生して46億年ほど経ってから現れた人間が、炭素を体に取り込んだ動植物の死骸が堆積してできた石油を掘り出して燃やし、再び大気に二酸化炭素を戻すということを始めました。石油を燃やすという行為は人間にしかできないことですから、生命界の動的平衡を維持するために人間が果たしている役割は大きいです。これも増大したエントロピーを捨てていることになると思います。私が「脱炭素社会」とか「リサイクル」などと叫んでいるのを見て一体何がしたいんだろう?と思ってしまうのもこの考えがあるからです。「利権なのね」と思って見ていますが。

先の大戦期に大負けしたドイツや日本ですが、どちらも戦後に復興して大国に返り咲きました。組織の腐敗もエントロピーの増大なのだと思いますが、戦争によって腐敗した組織が積極的に壊されたために再生したと思います。ここでも組織の腐敗という増大したエントロピーを捨てている。戦争に負けるのは悔しいのですが、いつまでも恨み節を言う必要はないと思います。

「戦争は悪である」と言えば耳触りが良いかもしれませんが、実際はそうとばかりは言えないんです。近代合理主義の権現のようなグローバリストエリートや共産主義者たちは、ここでもまた理性で操作し、敗戦とそれに伴う感情を利用して数々の秩序破壊行為を行なっています。動的平衡をわざわざ乱すような行為は止めた方がいいと思いますが、これも自然に抑制されるんじゃないかと思います。

猿の世界では、ボスの地位を獲得する闘争に負けた猿は無視されて健康であるにも関わらず早死にすると言われています。人間社会に当てはめたら「みんなで無視する」という「いじめ」に見えるかもしれません。これっていじめなんでしょうか?悪なのでしょうか?猿の世界の秩序を維持するために増大したエントロピーを捨てているのかもしれないです。

しばしば嘘は悪いことだと言われます。でも、異性の気持ちを惹くために少しの嘘をついたり誇張をすることはあります。これって悪なんでしょうか?種の存続システムという秩序を維持するために行なっているのかもしれません。

道徳や宗教といった、偉い人や神様と思しき者が主張した指針と矛盾するように見える自然現象があるときに、我々は何を基準に判断・行動すれば良いのか。私としては、科学の教育をもっと充実させた方が良いのかなと思っています。

動的平衡を維持しようとするのが「理」なら、そのための行為は「善」なのかもしれません。

善悪の評価はちょっと考えてから行った方が良さそうです。劣情を刺激されて反応するだけの理性なんて怖いですよ。実際そういうのが多いけど。好き嫌いも言えない社会は息苦しいと思います。

なるほどと思った方、自分にも考えがあるという方、ここはちょっとちがうんじゃないか?と思った方。是非、ツイートやブログ投稿などで考えを表明してください。最後までお読みくださりありがとうございました。