やっぱり天皇陛下!

何年かぶりに新年の一般参賀に行って、あの雰囲気の中にいて感じたのが、やっぱり日本は天皇陛下なんだなぁということでした。

三島由紀夫が「日本は天皇だ」というような趣旨のことを書いていたと記憶していますが、僕もそうだと思う。

男系継承という掟があるお陰で権威が安泰。天皇以外は全員一般ピープルという考え方。すごい発見だと思います。

特攻隊を犬死にだというような人は「天皇陛下万歳」「皇国史観」「皇軍」なんていう言葉を見るだけで震えちゃうみたいだけど、例えばあの戦艦大和の先端部にバーン!と取り付けられた菊の御紋を見ると美しいなぁと思うというような感覚がずっとあって、皇国とこ皇軍とか、僕にとっても良い響きです。

門に大きな日の丸を掲げ、神社に初詣をし、天皇陛下と一緒に新年を祝う。日本だなーと思います。

日本人は多くの世界の国々よりも豊かな国です。蛇口をひねれば水が飲めて、海に囲まれて穏やかな気候。山には木々が生い茂り、文化も文明も発達している。富士山をバックに新幹線がドカーーンと走り去る様子なんかを見てると嬉しくなります。

先日、核兵器を廃止する条約案に日本は反対しました。噂によれば日本が核武装にかかる時間は一晩だとか。多少誇張があるようにも思いますが、世界最速レベルのスーパーコンピュータによる核弾頭のシミュレーション、正確に宇宙にロケットを飛ばせる技術、そして核兵器に転用可能な燃料。すべて持っている。表向きは非核国ですが、新たに核武装する国が増えて収集がつかなくなりそうだったら、「日本が核武装するよ」と言うだけで強烈な脅しになる。だから、核武装の選択肢は残しておく。個人的には核兵器の使用には反対だけれど、核武装の脅しだけで周りの国々を黙らせることができるならカードとして持っていてもいいかもしれない。日本だからこそ持てるカードです。

日本人は豊かなのに不満も多いそうです。SNSなどでも不平不満の投稿が絶えません。

不平不満があるのは悪いことではないと思います。現状に満足できないから、より良いものを目指そうとする。不平不満も使いようですね。

あちらこちらで頻発するテロや自然災害による被害。日本でも大きな地震で多くの人がなくなりましたが、それでもみんなで助け合い仲良く前に進む。

やる気になればたいていのことはやれます。為せば成る為さねば成らぬ何事も。

そういう環境に囲まれているのが日本人です。多くの日本人が作り産み育ててきたものごたくさんある。

そんな日本に生まれて良かったと思います。

ポリティカルコレクトネスの正体

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ポリティカルコレクトネス(政治的妥当性?)は国際主義者(ネオコン、ウォール街、国際金融資本、共産主義者など)が発明したものです。日本国憲法の前文もそうです。米国の人々はこれにウンザリしてトランプさんを当選させたようです。
目的は思考させないことと分断すること。
これと正反対の概念が十七条憲法や五箇条の御誓文に書かれていること。良く話し合って決めなさいということです。

例えば、大東亜戦争について話すときに、大きく分けて2つの立場があります。戦争は悲惨だという立場と大義があったという立場です。現実には戦争は悲惨だけれど植民地の解放という大義もあった訳ですが、ここで分断が生じてしまいます。

テレビなどで著名人有名人が戦争の悲惨さを訴えて戦争は反対だ、だから日本国憲法が良い、軍隊はいらないと言う。これがポリティカルコレクトネスです。戦争とはどういうものかということを考えるための入り口が1つしかない。

これだと立場が違うと議論は平行線で、両者は分断され、相手の言うことを良く聞いて、良く話し合って和を作るといことができない。

こういうことってたくさんあります。

日本は比較的安全な国だと言われるけれど、警察官僚の不正が酷い。ヤクザがいると困ることもあるけれど、ヤクザが居なくなると外国のマフィアが増える。

殺人をしてはいけない、盗みを働いてはいけない、人種差別をしてはいけない、子供を虐待してはいけない。そんなの当たり前だろ!ということがたくさんありますが、それをわざわざ言って異なる意見を封じるのがポリティカルコレクトネスです。

暴力はいけない非暴力の運動だと言ってるくせに、暴力的な行為に走る沖縄の反戦運動家などは、ポリティカルコレクトネスからくる現象の一つです。平和的にという言葉が好きな中国共産党がチベットやウィグルで虐殺をしたり、尖閣周辺に軍艦や戦闘機をよこすのもそう。日本の弁護士が少女買春はけしからんと国連の特別報告者に入れ知恵したり、自称ジャーナリストが自分の想いを遂げるために言論弾圧したりするのもそうです。

語気が強い言葉や批判に反応する前に少し考える時間を作るのが良いと思います。綺麗事を言う腹黒い人もいます。

注意したいものです。

モノづくり

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日本人のモノづくりは「モノに魂を入れること」などと言われます。またモノづくりに取り組むには「執念」が必要だとも言われます。

宮大工さんが建てる建造物、ホンダのスーパーカブ、カワサキのH2R、新幹線などには作り手の魂や執念を感じます。

最近はグローバル化とか国際基準とかの掛け声とともに、安い人件費で、取り敢えず使える、ほどほどのモノを作ることを推奨してるかに見えることがあります。

明治期に西洋の文明と思想が押し寄せるように流れ込み、大東亜戦争後は占領政策(日本が悪くて諸国民は公正で信用できる)という刷り込みがあったものの、日本人は古の昔から続く伝統が染み付いた頭と体を使って、西洋の文明と思想を取り入れながら、モノに魂を入れてきました。それがメイドインジャパンの評価に繋がり、そのおかげで一流国家の民として生きていられる。

日本神話に書かれている修理固成はモノづくりのことです。日本人は生産する民です。

何千年も前からつい最近まで、ほとんど日本人は稲作とモノづくりをする日常を過ごしてきました。一握りの貴族以外はみんながそうしてきた。今は、そのオコボレを稲作をしない・モノづくりをしないで享受している人が多い。製造業からサービス業への移行と言われたものは、生産労働から非生産労働への移行だった。生産された使用価値をお金という交換価値(信用創造という借金)を使って掠めとる社会です。

これは結果的にメイドインジャパンの価値を毀損するかもしれません。

何が大事なのか、時々考えて生きたいと思います。

農業生産は安定した方が良いのか?

ほとんどの人が感違いしているかもしれませんが、人間より米の方がずっと偉い。

米は水と二酸化炭素と太陽光を使って、自分の身体と人間の食料を作ります。もし、人間が空気中の二酸化炭素から炭素を取り出して身体を作る能力があったら米のお世話にならなくて済みます。

人間は米などの植物に依存している。もっと言うと、米によって人間はコントロールされている。

米を始めとして、あらゆる作物は出来高が一定ではありません。なぜ一定ではないのでしょうか?

米を食べる人間はその収穫量を前提に数が決まります。毎年豊作だったら人はどんどん増えます。食料が安定して供給され、農業技術が改良されて、さらに多くの食料が供給されれば、人はどんどん増えます。

食料生産の限界点に達したら、人はすべてを食い尽くしてしまいます。

たぶん米は食い尽くされないように、出来不出来がある。自然のシステムはそうなっている。

良いのか悪いのかはわかりませんが、そんな仕組みになっているように思います。