改憲派は敗北主義者

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ちょこっと憲法(と呼ばれるもの、憲法だと錯覚しているもの)を弄ったくらいで状況が良くなると思っている風の改憲派というのは敗北主義者だろうと思う。

反日の正体はフランクフルト学派に代表されるユダヤグローバリストによる工作であって、韓国が中国がロシアがという話じゃない。だいたいがポジショントークなんだよね。日本の視点じゃない。ユダヤグローバリストの論理に乗ってる時点で、米国寄り日本でも韓国寄り日本でも一緒。

青山某などのように「70年も(改憲の)努力をしてきたのを否定するつもりか?」などと恫喝する人もいますが、現時点では、ほとんどの憲法学者(という業者)が憲法の精神だと思っている前文(空虚な呪文みたいなもので、フランクフルト学派の思想が入っている悪文)を弄っていけないと言うし、改憲派の先鋒と見られる安倍さんも怖くて触れないし、立憲的改憲なんて言ってる連中も当然のように触らない。

そうかと思えば金のことばかり考えている経済評論家風情が、日本が自主防衛するより米軍に居てもらった方が得だといった論調で自立を拒む。目先の損得しか考えない。自分の国は自分で守るんだという精神がないんだよね。唯物論者だ。「戦うも戦わざるも負ける。同じ負けるなら戦って護国の精神を守る」と苦渋の選択をした戦前の軍人が泣く。

小説家が書いた歴史本を読んでも、論理体系がユダヤグローバリストの理論体系なら、自慰して終わることになるので、是非、良い機会なので日本の歴史や伝統を評価し直して欲しいと思う。日本の歴史を肯定的に評価する気分はあると思う。

経済学にしても憲法学にしても、凡そほとんどの学問体系がフランクフルト学派に象徴されるようなユダヤグローバリズムの毒が盛られた状況では何を考えても負けは確定です。人文科学と社会科学はやり直しが必要かもしれない。

これら敗北主義者たちの言論は、例えそれが保守的な言葉を使ったり雰囲気を醸し出していても有害であり、保守的な言葉を使ったり雰囲気を醸し出しているからこそ有害なんだと思う。

天皇陛下が事あるごとに「象徴天皇の意味を考えている」と発言されています。つまり「なんだよ、象徴って?」という話なわけで、日本国憲法と呼ばれる怪文書の前文に正統性がないことを認識されている。

日本国憲法下で作られた教育基本法は家族や祖先を軽視しているし、国家公務員法に到っては、公務員の定義を捏造して役人による公権力の乗っ取りを志向する。

政治家が稼業や家業になり、政党が幅を効かせる。そして役人が公権力を握る。

日本国憲法では、国民の代表を選挙で個人を選ぶ。党を選ぶのではない。選ばれた人が公務員。国民が罷免できる。役人は官吏であって公務員ではない。

公権力は国民の代表として国会議員に託され、役人には公権力はなく国民の僕である、公権力は国民が持つ、というのが民主制でしょうに。(もっとも、元々がおかしな論理や理論の体系が染み付いた人々ばかりで、そんなものがまともに機能するとは思えないが)

政府の構成員が、そもそも日本国憲法というものを軽視してるわけです。

こういう状況は、憲法としての実効性がないと言って良い。あるいは、守る必要を感じていないのであれば、憲法としての妥当性もないのだろうと思う。

正統性も実効性も妥当性もないなら、すなわち日本国憲法は憲法としての効力がない。

憲法としての効力がない。憲法ではないという意味。

これが憲法無効論です。

「今更、憲法を無効にできない!」と興奮する人がたくさんいますけど、それは無効論とは呼ばない。それは破棄論であって、広義の改正論。

無効ならば憲法ではないのだから改正もできない。無いものを有ると言うのはやめてもらいたい。

沖縄は日本国憲法が施行されたときは日本ではなかった。日本国憲法の制定に参加できずに、つまり大日本帝国憲法下から出ることなく、ここまで来ています。

米国の支配下にいる方が金が儲かると喜んでるうちに、蚊帳の外のように扱われ、そこに左翼による政治工作が入り込み混乱した。

米国の支配下で金が儲かると喜んでいた(いる)のが、前述の敗北主義者たちです。この連中がもう少しまともだったら、今のような沖縄の混乱はなかったかもしれない。

早く日本国憲法は無効だ(ずっと無効だったんだ)ということを認め、占領期にいじくり回された法の体系を一旦正規のものに戻すべきだ。改正はその後。

皇室典範は皇室に戻す。皇室に自治を戻す。教育基本法も国家公務員法も作り直し。

こういうことを書くと、戦前回帰だと批判をする人もいるけど、その取り敢えず批判から入るという批判理論がフランクフルト学派の手法なんだよね。毒が回っている証拠です。

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dupes

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騙されやすい人という意味だそうで、最近ちらほらと見聞きします。

共産主義者だと意識してないのに共産主義者に協力してしまう人のこと、といった使われ方をします。

共産主義者が行う影響力工作というやつに引っかかる人たち。

例えば、可哀想な人がいると弱者を守れと弱者側がマウントを取りにいくでしょ?

可哀想だー可哀想だーという雰囲気を醸成して反論を遠ざける。

人権だ平等だと、わざわざ対立を作る人たちがやってるやつ。

弱いことは善じゃないんだよね。

「僕の将来の夢は弱者になること」なんていうのは聞いたことがありません。子供が「大人になったら弱くなりたい」なんて思わないのは強いことが善だから。

強者になって弱者を守ろう、となるのが善。生存率を高めるから善。

強者になって弱者を無視しよう、となるのが悪。生存率は下がるよ。

体罰問題も影響力工作で相当やられている人がたくさんいる。体罰と虐待の区別もできない大人が多いのがその現れです。

強くなりたい子供に対して、子供を強くしたい大人が指導するときに多少の有形力を行使する。これが本来の体罰。強さとは何かを教えないといけない。(腕力だけが強さではないのは言うまでもない)

これを止めてしまうと、弱いものいじめをするような人間になる。

心と体は一体というのを自然と受け入れられる日本人なら痛い目に遭うのも心を育てる手段の1つだと理解できるのではないかと思う。理性のみに訴えれば心が育つと考えるのは西洋の思想です。生まれつき完全なる理性などはなく、理性は育てるものです。痛い目に遭わなくても心がしっかり育つならそれに越したことはないし、その方法が理路整然と説かれ、再現性がはっきりとわかればみんなが納得するだろうけど、今のところそんなことはない。

批判されるのが怖い、孤立するのが怖い、嫌われるのが怖い、暴力が怖い、保身したい。こういうのが弱さです。

これが政治家だと、マスコミや官僚の脅しに屈して、地位と利益を失うのが怖くなり、やるべきことができない。

これが経営者だと、会社の不正を隠して、それがバレて会社を潰す。

これが技術者だと、上司の命令が間違っていても聞いてしまい、品質や技術が低下する、

これが子供だと、仲間外れになりたくないから攻撃しやすい子を見つけて集団でいじめる。

保守派を自称する人でも、影響力工作に引っかかって、憲法改正だー!と息巻いてる人がたくさんいる。

共産主義者が書いたもの(共産主義者のトリックが散りばめられた工作文書)を少しいじれば良くなると思っているみたいだけど、全面取っ替えするくらいじゃないとダメなんだな。良くならないことを必死にやって、やってみたらやっぱり良くならない。

これは敗北主義です。

改憲派も護憲派も敗北主義者。

櫻井よし子さんのように、少し前までの米国主導のルールの下に日本があることを望む人がいる。トランプ大統領の誕生に狼狽えて「どうして良いかわからない」と言っていた。日本人を最も多く殺したのが米国なのに、米国側に付いて近隣国を批判する。

米国は日本を強くするために暴力を振るったわけじゃないから虐待なんだよね。

ゆすりたかりの朝鮮半島の国や残虐で嘘つきな中国大陸の国家も悪ですが、米国の中にも悪がある。(後ろには同じ顔が垣間見える)

どの悪がより良い悪なのか?なんて興味あります?

その悪の体制が気に入ってるみたいで、もしかしたら反日(反国家)主義者のスパイかもしれないなんて思う。

たまたま個人名を出しましたが、保守派を自称する言論人などにこの手が多いです。勝ち馬に乗るってやつですかね?

敗北主義者が語る安全保障とか経済政策とか国家観なんて聞く必要あります?

改憲派が私のような無効論者を罵るという現象は一種の影響力工作の影響なんじゃないかなと思っている。

「嫌い」と「悪い」

多くの人がSNSやブログなので自分の意見を発しています。そういうものを眺めていると多くの人が「戦争は悪である」「いじめは悪である」というような文章を書いていますが、実のところ「戦争は嫌だ」「いじめは嫌だ」と言っているに過ぎないように思えます。「嫌い」と「悪い」は別の概念ですが、ついつい「嫌い」なことは「悪い」ことと思ってしまうようです。

私個人としては「自然界に存在するものは善である」という感覚があります。「自然」は「あるがまま」ということですから、「あるがまま」のどこが問題なんだと思うわけです。背が高い低い・太っている痩せている・肌の色が白い黒い黄色いなど、人間の理性で操作されていない自然界の存在は全て善で、自然界には「背が低いのは悪い」とか「肌の色が黒いのは悪い」と言った評価はありません。過去に黄禍論を唱えて黄色人種を悪として排斥・虐殺した歴史がありますが、「嫌い」と「悪い」を極端な解釈で混同した例の一つだと思いますし、現在でもこれに類することは無くなっていません。差別問題と騒がれる事柄などは「嫌い」を「差別だ」と解釈する・させることで問題化しているように見えます。「嫌い」と言われるのが「嫌い」だから、「嫌い」と言わせないために「差別」という概念を持ち出して口を塞ぐ手法です。「自然界に存在するものは善である」とするなら差別が起きることもないのでしょうが、「嫌い」を「差別」と解釈するならいくらでも差別問題は起きることになります。大脳優位の人間だからか、近代合理主義が浸透しているからなのか、理性による操作で善悪をすり替えるというフェイクをやっているのではないかと思えてなりません。

「動的平衡」という生命観があります。ルドルフ・シェーンハイマーが実験によって確かめた仕組みです。

生物は動的平衡状態にある。食べたタンパク質を分解して、新たにタンパク質を合成し、要らないものは排出するという代謝の仕組みによって、常に体の構造や組織が平衡状態に保たれるというのが動的平衡です。壊して作るの繰り返しを積極的行なっています。ネズミなどは3日ほどで体のタンパク質が入れ替わるそうで、ネズミよりは時間はかかるものの人間も例外ではありません。

これによってわかることは、

  • 食べたものがそのまま体になるのではない
  • 生物は実際は積極的に体を壊している

ということです。

エントロピー増大の法則というのを聞いたことがある人は多いと思いますが、宇宙は(自然は)秩序が乱れる方向に動く。この法則は宇宙の一部である私たちの体の組織に当てはまり、体の組織という秩序はどんどん乱れる方向に動くので、それを維持するために積極に壊して作り直しているというわけです。増大したエントロピーを捨てているわけです。

人間を含めた自然環境も破壊と生成の繰り返しです。植物が二酸化炭素から炭素を取り込み、それを動物が食べる。これだけだと大気中の二酸化炭素が減るばかりで、いずれ植物が絶滅し動物も絶滅することになるわけですが、地球が誕生して46億年ほど経ってから現れた人間が、炭素を体に取り込んだ動植物の死骸が堆積してできた石油を掘り出して燃やし、再び大気に二酸化炭素を戻すということを始めました。石油を燃やすという行為は人間にしかできないことですから、生命界の動的平衡を維持するために人間が果たしている役割は大きいです。これも増大したエントロピーを捨てていることになると思います。私が「脱炭素社会」とか「リサイクル」などと叫んでいるのを見て一体何がしたいんだろう?と思ってしまうのもこの考えがあるからです。「利権なのね」と思って見ていますが。

先の大戦期に大負けしたドイツや日本ですが、どちらも戦後に復興して大国に返り咲きました。組織の腐敗もエントロピーの増大なのだと思いますが、戦争によって腐敗した組織が積極的に壊されたために再生したと思います。ここでも組織の腐敗という増大したエントロピーを捨てている。戦争に負けるのは悔しいのですが、いつまでも恨み節を言う必要はないと思います。

「戦争は悪である」と言えば耳触りが良いかもしれませんが、実際はそうとばかりは言えないんです。近代合理主義の権現のようなグローバリストエリートや共産主義者たちは、ここでもまた理性で操作し、敗戦とそれに伴う感情を利用して数々の秩序破壊行為を行なっています。動的平衡をわざわざ乱すような行為は止めた方がいいと思いますが、これも自然に抑制されるんじゃないかと思います。

猿の世界では、ボスの地位を獲得する闘争に負けた猿は無視されて健康であるにも関わらず早死にすると言われています。人間社会に当てはめたら「みんなで無視する」という「いじめ」に見えるかもしれません。これっていじめなんでしょうか?悪なのでしょうか?猿の世界の秩序を維持するために増大したエントロピーを捨てているのかもしれないです。

しばしば嘘は悪いことだと言われます。でも、異性の気持ちを惹くために少しの嘘をついたり誇張をすることはあります。これって悪なんでしょうか?種の存続システムという秩序を維持するために行なっているのかもしれません。

道徳や宗教といった、偉い人や神様と思しき者が主張した指針と矛盾するように見える自然現象があるときに、我々は何を基準に判断・行動すれば良いのか。私としては、科学の教育をもっと充実させた方が良いのかなと思っています。

動的平衡を維持しようとするのが「理」なら、そのための行為は「善」なのかもしれません。

善悪の評価はちょっと考えてから行った方が良さそうです。劣情を刺激されて反応するだけの理性なんて怖いですよ。実際そういうのが多いけど。好き嫌いも言えない社会は息苦しいと思います。

命を大切にする教育

有性生殖をするようになった生物は、遺伝子の運搬者として存在します。雌雄が交配して遺伝子を子孫に残して死にます。命というのは、この作業を繰り返して永続することで、個体の(私の)命というものは存在していません。システムそのものが命です。システム全体で一つしか命はない。

子供を産まない権利というのは、如何にも大脳優位な人間の考えそうなことで、両親が子供を産まない権利を行使したら、子供を産まない権利の主張はできません。そういう権利があると思うのは幻想です。

命を大切にするということは、命のシステムに逆らわずシステムを維持することに他ならないわけで、子供たちに「子供を産む産まない権利」を教えたりすることではなく、現代の人間社会であれば「結婚して子供を産みましょう」「できれば元気な子を産みましょう」と教えるのが大事だし、健康な子供を産むには「なるべく早く結婚・出産しましょう」と教えるのが道理です。

最近は弱者ビジネス、差別ビジネスというものが横行していて、大脳優位の反自然的な教育や思想を与えられた人々が、少数者の権利や弱者の論理などを振りかざして運動を起こすことが増えましたが、犬や猫が分かっている命のシステムに逆らう様子があまりにも滑稽です。

自然界には分布というものがあって一様ではありません。中には中央値から離れる人もいます。この場合、不妊や不婚に当たるし、片親育児なんていうのもそれに当てはまるかもしれません。

そういうケースがあることは、分布なんだから仕方ないと認識する必要はありますが、分布を壊すような方向に誘導するのは自然破壊です。ですから、そういうケースを基準に教育なり政策なりをするのは愚です。やるなら、そういうケースを減らすことに頭を使うべきです。